publication > 宮崎進のことば

 いうまでもなく、ものを創る仕事というのは、美しさや純粋なものへの憧憬に応えて、生きるよろこびを押し広げていくことである。
 心にまかせ、やりたいことをやってきたようなものだが、あるがままの自然と、今日という時代の狭間で如何にあるべきか、自らの存在する意味を求め続けてきた。
 20世紀の激動する時代を生きて、重い歴史の影と再生への祈りの表現は、そこにそうしないではおれない私があったからである。
 作品は私そのものとしてエネルギーに溢れ、存在を示そうとしたもので、あくまでも私の全体像として見て欲しい。
 私はこの地に生まれ育った。このたび私の歩みの一端を陳べる機会を戴き、優しく見守ってくれた多くの方々に深い感謝を捧げるものです。

(『宮崎進展 生きる意味を求めて』(周南市美術博物館)カタログより 2005年8月)

 1945年私は中国東北部(旧満州)で敗戦を知りそのままシベリアに抑留された。荒寥とした曠野で過ごした7年余り(軍隊生活3年、抑留4年)、壮絶な運命に翻弄された人間の清冽なまでの赤裸々な姿や、そこから立上がっていく人間本来の生きるための力を知った。
 私の作品についてよく「どこかにシベリアを感じる」といわれる。そういえばそうだと思うが、それを意識して描くことはなかった。二十代の戦争と俘虜体験は強烈に刻まれ、私の原点として深い影を落としているのは確かだと思う。シベリアで私の見た人間の残像は、今も心に焼きついて忘れられない人間のかたちなのである。
 その頃、私はラーゲリで払い下げの糧秣用の麻布袋を拡げて絵を描いた。およそ何一つ物のない当時、何かを創り出すというのは想像を絶することだったが、この麻布袋は大変私を助けてくれた。近頃再びこの麻布袋を使って仕事をしているが、私はこの布に特別の愛着と、何よりも物質としての存在感や材質を越えた不思議な生命のようなものを感じるのである。
 作品は投げ出された自分のすべてである。映し出した自分の全体像と考えているわけで、いわばこれまで歩いた道で私に映ったすべてが透過されて、いうなら私の精神の風景としてありたいのである。
 重ねる、ちぎる、貼る、削る、塗る、突然何かが見えはじめる。現実とも虚構ともつかない時空を漂う。こうしてものを創り続けるのは己自身の実体に迫ろうとする何かがあるからだ。そこには私自身にも捉えられない得体の知れない自分があって、近づこうとすればする程何もない荒野のような空間が見えてくるのである。いつもどこかに、もっとましな自分があるように思えたり、自分の知らない自分の世界を夢見たり、いつかは手にするだろう私自身を探し求めるのである。人間のことも、人生のことも何も解らないまま身を擦りへらすのである。「何故いま描いているのか」といわれてもわからないが、こうせざるを得ない何かがあって、私という人間を駆り立てているように思う。だからといってどうなるものでもないが、それだけが私にとって生きているということのようである。確たる答は何もないというのが本当で、つまり先のことは何もわからないのである。本来先の見えないことをやっているのだが、実際にはそのこと自体が面白いし、好きなのである。

(『宮崎進画集 私のシベリア 森と大地の記憶』序文より 1998年11月)

原点
 暗い灰色の雲がたれこめ、荒野を風が通り過ぎる。シベリア、すべてを拒み続けてきた墓場を思わせるこの風景には、帝政時代の流刑地そのままの、崩れた丸太小屋の残骸が不気味な黒い影を見せていた。1945年12月の末、ラーゲリに辿り着いた時のことである。
 このあたりはほとんどが永久凍土で、表面はわずかに溶けた泥土に覆われ、道もなくところどころに朽ちた木が白い骨のように見える。雑草や苔で青みを帯びた褐色の地表は、大小の石や瓦礫や砂がまだらに浮き出して、あちらこちらに裂け目や襞をつくり、起伏を繰り返しながらはるかに地平まで続いていた。この瀟々として何一つないこの眺めの向こうに何があるのだろうか。誰にも解りはしないが、行き着く所のないこの果てにいつも不思議な夢を見て憧れた。そして、それはやがて哀しい気持ちにさせていった。
 この空虚で大きく何もない原初の眺めは、心を純粋にして、より突き詰めたものを見つめさせてくれた。人間や自然をそのものたらしめている根源的な力についてである。ここから立ち上がっていく人間の、したたかで力強い逞しさは忘れられない。こうしてここで起こったことや眼に写ったもののすべては、今作品の中に積み重なって、私の精神の風景となっている。
 十代の終わりから過ごすことになった中国やシベリア、私の仕事はこの時期に刻まれた深い傷痕の記憶からはじまる。
 激動と混沌の中で、現実のすべてから離れ、自分を取り戻すことができたのもこの眺めからである。ここにはかたちらしいものは何もないが、心の底の私そのものに直に触れ、そこからものを見たり、ものを表現しようとするようになっていった。

(『鳥のように シベリア 記憶の大地』本文より  2007年5月)